大阪市の行政区に関する橋下氏の誤り

橋下氏のツイートは誤謬が紛れていることが多いのだが、歴史のハナシで事実と異なるものは直すべきだろーなと、とりあえず行政区の歴史についてピックアップ。
課題ツイートは下の三つ。

http://twitter.com/#!/t_ishin/status/45878836444921856
いずれにせよ大阪都構想は、東京都制大阪市制の発展型です。1943年まで大阪市内に区議会を持った独立区が4区あったというのは驚きです。大阪都構想は、その状態に大阪市を戻すだけです。これで平松市長・大阪市・既存政党・学者の、大阪都構想大阪市をバラバラにするという主張は崩れました。(2011年3月11日01:09)

http://twitter.com/#!/t_ishin/status/132411300553830401
大阪都構想は、大阪市内の区長を選挙で選び、区長に予算編成権を持ってもらう。すなわち中央集権的な大阪市から大阪市内に分権する構想なんです。1943年、東京府東京市を合わせて戦時体制のための東京都を作ったのと同時に、大阪市内の独立した各区を合わせて作ったのが大阪市です。(2011年11月4日19:58)

http://twitter.com/#!/t_ishin/status/132411660974567424
大阪市の体制も戦時体制そのものなんですね。東京都はその後23区が独立し区長を選挙で選び予算編成権も持ち自治体としてのかたちを備えていきました。ところが大阪市は市内の各区はそのまま大阪市役所の配下に収められたままです。東京23区が独立したのであれば大阪市内の各区も独立すべきなのです(2011年11月4日19:59)

 つーことで、以下、大阪における区制の略史を。

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1875年(明治8年
 大区小区制の制定。大阪市街には4大区が置かれる。「大阪市」はまだ存在していない。

1878年明治11年
 郡区町村制に改められる(大区小区制廃止)。翌年施行で、4大区が4区となる。当時は「市町村」ではなく「区町村」。

1880年明治13年
 区町村会法により、各自治体に公選議会が置かれる。

1888年明治21年
 市制・町村制に改められる(郡区町村制廃止)。翌89年に大阪市が発足。
 全国的に区から市に改組されたが、東京、京都、大阪については旧区が維持され、大阪4区は市制の下部組織(行政区)となる。区会は区政の議決機関ではなく、区有地・造営物(財産区)を管理する財産区会に変質。(後に区立の中等教育機関を抱える区では「学区の区会」としての性質も兼ねる。)

1893年明治26年
 大阪府内で学区制が復活。小学校教育事務のための区会が設けられる。(財産区の区域と同じ場合には、財産区会が学区の区会を兼ねた。)

1911年(明治44年
 市制の改正勅令。三市の区は法人格を認められ、東京市15区では区の議決機関となる区会が復活。京都市大阪市では、法制上は法人区と認められながらも、区会の位置付けは財産区会、学区の区会のままであり、行政区として運用される。

1925年(大正14年
 大阪4区が8区に分区され、市域拡張で5区が新設されて13区に。

1927年(昭和2年
 大阪府内で学区制が廃止。小学校教育に係る区会は当然に解散する。

1932年(昭和7年
 分区により大阪13区は大阪15区となる。

1940年(昭和15年
 地方税法改正。区税、学区税について市町村税の課税方式での徴収が禁止。以降、区立の実業学校は財政上の理由から市立に漸次移管。(一部区会が有していた、中等教育の学区に係る部分は当然に失われる。)
 財産区会としての区会も、区有財産の市への移管により、漸次解散が進む。

1943年(昭和18年
 4月1日、大阪15区が大阪22区に再編される。
 6月1日、市制改正。地方自治制度も戦時体制色が強まる。
 7月1日、東京都制の施行により東京市東京府が東京都となる。
 9月、大阪市東区会にて、「区有財産の大阪市への寄付に関する議案」が提出される。「大東亜戦時下、時局の重大性に鑑み、大阪市政の運営とこれの発展向上に寄与するため」とのこと。(財産の移管に伴い、財産区会である東区会は当然に解散される。(11月25日))

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 略史としては以上です。もう少し細かく書くと、市制成立時の市制特例(三市特例)の話とか、勅令市と法令市との大都市制度の違いとか出てきますが、そこは割愛。

 では改めて橋下氏のツイートを振り返ってみましょう。

 まず「1943年まで大阪市内に区議会を持った独立区が4区あったというのは驚きです。大阪都構想は、その状態に大阪市を戻すだけです。」がダウト。「独立区」ではありません。また、「その状態」に戻すと22区のうち4区だけに区会が置かれます。全ての区が「独立区」であったように読ませるのは詐術的な手法でしょう。

 次に「1943年、東京府東京市を合わせて戦時体制のための東京都を作ったのと同時に、大阪市内の独立した各区を合わせて作ったのが大阪市です。」がダウト。東京都は1943年ですが、大阪市は1889年です。戦時体制の結果として大阪市が誕生したという事実はありません。

 それから、「大阪市の体制も戦時体制そのものなんですね。」がアヤシイ。戦時体制として1943年に東京都制が施行され、市制も大改正されるのですが、この中で大阪の区は何の影響も受けていません。15区5出張所から22区に再編したのは、人口動態による不均衡を適正化することと、警察行政の区割りと15区の区割りとが不整合を起こしていたことに由来し、以前から議論されていたものでした。区会の解散にしても、区有財産を市に移管したことに伴う解散であり、戦時の制度変更とは全く関係の無いハナシです。寄付の経緯が戦時の風潮であるにせよ「戦時体制」という言葉で都制と比肩させるのは余りに苦しい。

 最後に「ところが大阪市は市内の各区はそのまま大阪市役所の配下に収められたままです。東京23区が独立したのであれば大阪市内の各区も独立すべきなのです」は言わずもがな。上に挙げたとおり、東京特別区大阪市行政区では全く成り立ちが異なっています。「東京がそうなら、大阪も当然に」というのは完全にダウト。経緯を都合よく読み誤っています。

 取り合えず、歴史に関わる誤りとして大きな部分はこんなトコ。


参考
・都史資料集成(2)、(8)
・新修大阪市史(5)、(7)
http://www.city.osaka.lg.jp/hodoshiryo/cmsfiles/contents/0000142/142765/chuukantorimatome-2.pdf
http://www.pref.osaka.jp/attach/9799/00055606/shiryou05_san2_kukai.pdf